
このところ、いろいろな思いが心の中にあった。
私が今ここにあるのは、両親がいたからで、その両親がいるのは双方の祖父母がいたからである。そして、その祖父母がいるのは、その両親が・・・とさかのぼっていけば無数の人間の連鎖の中で私がここにいるのだ。
そして、その連鎖が途切れる事は「ある意味」で無い訳で、私の血統と言うモノも今私が生きているという事は「無くなる」という可能性はないのである。もちろん「終了」という事も考えられるが・・・・。
ただ、世の中がここまで多様化したが、人間という存在も多様化しているようでそうではない。「私」という存在はこの世の中に「私」しかいないのである。「私」に似た存在はもしかしたらいるのかもしれないが、「私」はいない。そこで、人間というモノはある意味での「価値観」というモノに対して「似たもの」とのコミュニティーを作ろうとする。それは、当たり前の事で無くてはならないモノであるとは思う。
それが、私にとって何であるのか?と普段は考えなくても、事ある毎に脳みその中から「一種の感情」として吹き出してくる。元々、「協調性」と言うモノに欠けているいるせいか、まわりとの距離を取りつつ調和を図り、自分のまわりに壁を作るという手段を幼い頃から続けているので、ある意味自分の中で「ルール」というか「縛り」を作ってしまっている。それが良いのか悪いのかはわからないが、今の生活環境で生きていくには後者であろうと思っている。
それでも、人生の半分を生きてしまった現在、それを変える事は難しく、私自身も変える必要性を感じていない。
たいへんおもい話にはなるが、「あなたは必要ない。あなたがいなかったら・・・」との言葉を最愛の人から突きつけられたらあなたはどう思うだろう?これは恋愛だったりではなく、人間が存在する最低限のコミュニティーでの話としてである。
「己の存在」というものを根本から崩される言葉で、傷つかない人間はいないのではないだろうか?これの気持ちをどう表現したらいいのかは、私のボキャブラリーでは無理なのだが、どうしようもなく悲しくて、それをどうしたらいいのかもわからないのが本当のところだ。
ところが、人間というモノは1人ではないので誰かしらが助けてくれたり、支えてくれたりする。私の場合は三人の最愛の娘がそれであって、彼女たちとの関係がなければこの世から私という存在は無くなっていたのかも知れないと思うほどだ。それが、世間からみれば「いびつな愛情」なのかも知れないが、それはまったく気にするところではない。
私としては、彼女たちとのコミュニティーが第一でその他はオプションでしかない。だから、生きていく為の機能としては確立されているのである。ただ、それも、崩れることやひびが入るのは当たり前で、それらを日々補修して確固たるモノにして行くのが人生であると思っている。
ところが、その外側から攻撃を加える人間や出来事がここ一年ぐらいよくあるのである。それ自身は全く気にする事でもないし、影響はないと思ったのだが、やはり人間という事で負のスパイラルがまっていた。それを何とか打破したいと思って、もがいていたのがここ数ヶ月である。
改善するきっかけはホントに些細な事、そう、話し合って、心の中を出来るだけさらけ出し理解し合う事だった。それが出来たら「なぜ、そんな事で悩んでいたのか?」と思うほどになるのが不思議だ。そして、まわりがすごくよく見えてくる。私達のコミュニティーは最少人数でこれ以上でもこれ以下でもないという事になっているが、ほとんど人はかなりの人数の中でコミュニティーを作っていると思う。もちろんそれも良いし、そのコミュニティーの中に私も頭数としている事もある。ただ、よく見えている現在、それらを観察してみると、いわゆる「偽りの世界」で、裏でお互いの足をひっぱたり、つねったり、陰口を言ったり、嘘をついたり・・・と私が大嫌いな事をしている人が多い事に気がつく。これはかなり前から気がついてはいたが、自分が「負」の部分に住んでいる場合は全く見えない現象である。
それが太陽の下に出てくるとよく見えるので全く持って不思議だ。ただ、世の中、その辺を「ぐっ」と我慢して、自分もそうなって生きていく方が気も楽で、居場所も出来て、生きやすい世の中なのかなぁ〜と思えるのも本当のところ。人間って本当に弱い生き物である。自分もその様な事をしていた事もある訳だからこそわかる事で、それが嫌で今の状況に持って行ったのだから・・・・。そして、その「偽り世界」の終焉は確実にあり、崩壊しかないのだ。
そうやって生きていく事を望まない私もこうやって、自分の気持ちをコラムに書く事で「陰口」になるのかも知れないが、誰でも読める環境でこれを書き、これを読んでくれている人がいる時点で陰口ではなくなるのかと解釈はしている。
私自身、これからの人生がどのくらいあるのかはわからないが、他人になんと言われようと、自分が大切に思っている人がいてくれるという事で救われるのではないだろうか・・・もちろんその対象にあたる人にもそれぞれの思いがある訳だからすべてがお互いにの為に・・・・と言う事ではないのだが。。。。
つらつらと書いてしまったが、この思いに気付かせてくれたのは「最愛の娘」のウチの1人、写真のココである。彼女が私に向ける愛情を本当の部分で理解する事は異種である事で不可能だが、彼女がある日にとった一瞬の行動が私にそれを気付かせてくれたのだ。
まりのにきょうこにココ、彼女たちが私にとっての最愛な家族である事は今もこれからも変わる事はないだろう。心の底から「大好き」と言える唯一無二の存在である彼女達がいてくれるから、今の私があり、このコミュニティーが私にとって本当に大切なモノと気がついた今、さらにその先に進む事に気がついたし、その活力をくれたのだ。
スタイルは変わるだろう。どんなスタンスでいくのかは全く決めてはいないが、このコミュニティーを守っていく為に決断した気持ちがあり、方向性は見えている。いろいろな意味で、思うところはあるのだが、この気持ちになれた2009年7月の最後の夜は私にとって記念日になった・・・・・。
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